仏頂面

肉眼という語感の生々しさ

妄言:「わたしは海なのかもしれない」


一ヶ月。

その時間は私にとって、曖昧さをもろに感じさせる灰色の時間だった。

特にこの一ヶ月は。


私の波は、いつの間にかやってきて、いつの間にか去っていく。

短いときがあれば長いときだっていくらでもある。

私の認識として、喉に指を突っ込み始めたら下り坂のサインというのがある。

そのサインが見え隠れしたのは夏のはじまる少し前だろうか。平坦な日常を過ごして、オーストラリアへ一週間現実逃避、そしてまた平らな日々へ。

私のお金はどんどん減っていき、劣等感はゆるりゆるりとかたどられていった。


今。

この二、三日はどういうわけだかうまくいっている。勉強をするわけでもなく、なにかについて激しく討論するわけでもない。

好きなことをできている。それも世間に言えるような好きなことを。

映画を観たり 友達と約束をしたり。

停滞していた時期のぶんまで映画を観てしまいたい衝動すらある。

食べ物を買うことを我慢できる。

できる、と自分で褒めることのハードルが昔の自分とくらべて著しく下がったことは分かっている。

それはとても情けなくて、恥ずかしくて、隠してしまいたい事実だ。

そう定義しているのではなくて、実際にそう感じているというだけの話。


奥の奥へ、底の底へ、閉じこもってしまいたいと感じる自分と  高く高く、飛沫をあげるくらい外へ行きたい自分の二人に 振り回されている。


ちょうどこの季節、秋のはじまりのひやりと肌を撫でる風みたいに 気持ちよくありたい。




なにもかもおちて、無駄がない しなやかな自分。

わたしはそうありたい。


少しは変われるのかな。

変わって、いるのかな。


わたしには わたしのことはわからない。

それでもいつか、自分がいたら。

よく生きてるねってそこから跳ぶことにしよう。